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终战诏书

日本正式接受《波茨坦公告》宣布投降的预兆
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终战诏书》(日语:大東亞戰爭終結ノ詔書),亦称《停战诏书》。是指日本昭和天皇在第二次世界大战末期签署表示接受美、英、中、苏四国在波茨坦会议上发表的《波茨坦公告》,同意无条件投降的诏书。这被看作是日本正式接受《波茨坦公告》、宣布投降的预兆。
《终战诏书》是在1945年8月14日由昭和天皇亲自宣读并录音,8月15日通过日本放送协会正式对外广播。这是日本天皇的声音首次向日本公众播出。天皇录音敬称为“玉音”,“放送”是日语“广播”的意思,故称“玉音放送”。
日本昭和天皇在1945年8月15日宣布投降的录音广播和录音盘,在2015年8月1日第一次向社会公开。[1-2]
中文名
终战诏书
外文名
日语:大東亞戰爭終結ノ詔書
录制时间
1945年8月14日
发表时间
1945年8月15日
发表人
昭和天皇

诏书概述

播报
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日语原名:大東亜戰爭終結ノ詔書
平假名:だいとうあせんそうしゅうけつのしょうしょ
诏书主要由当时日本首相铃木贯太郎起草,迫水久常、川田瑞穗、安冈正笃执笔完成,其他内阁大臣亦曾参与修订。为了争取免除天皇裕仁的战争责任以及保护日本天皇制,也包括试图减少国内强硬派引发危机的可能。诏书在措辞上采取了诸多手段,诸如模糊化日本发动的侵略战争的实质;规避日本对亚洲诸国的战争责任,只将对象限制在美、英两国;且将裕仁作为日本军队最高统帅的责任转嫁给日本政府。
诏书在1945年8月14日由昭和天皇亲自宣读并录音,次日通过NHK电台广播,这是日本天皇的声音首次向日本普通公众播出,天皇的录音被称为“玉音”,“放送”是日语“广播”的意思,故称玉音放送”。平假名:ぎょくおんほうそう 罗马字:Gyokuon-hōsō。

起诏始末

播报
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1945年8月10日,日本内阁昭和天皇经过8月9日的御前会议,最终于当日凌晨6时由日本政府照会中立国瑞士瑞典驻日大使,将日本决定投降的消息传达给两国政府,并经过他们将电报送到中、苏、美、英四国政府。这是最早透露日本投降意图的事件。由于主战派的少壮军官在东京制造假消息,试图掩盖这一事实。于是日本外务省大臣重光葵在清晨7点30分亲自在电台中宣布了这一消息。但实际上由于日本最高元首天皇尚未公开接受《波茨坦宣言》,参加对日作战的美国、苏联、中国虽然没有停止他们的军事活动,但世界各国基本上都在第一时间得到了日本政府表示投降的消息。
虽然裕仁天皇已经在10日下令结束战争,但包括陆军相阿南惟几、参谋长梅津美治郎、神风特攻队军团长大西泷治郎等强硬派与日本前内阁首相,时任海军大臣米内光政[3]、外相重光葵、内大臣木户幸一等主和派依然没能就投降的相关事宜达成一致。
8月14日上午10时30分,天皇召开了最后一次御前会议,面对依然没有达成共识的主战、主和派,裕仁决定下令停止争吵,并要求内阁首相铃木起草《终战诏书》,准备结束战争。最终《终战诏书》完笔,其中一份送呈天皇,他决定于8月15日将诏书公告世界。
8月15日子夜时分,天皇来到他的办公室进行诏书宣读的录音,于凌晨1时完成录音。凌晨,为终止《终战诏书》录音的播出,陆军军官竹下正彦、椎崎二郎等叛乱军官杀死了近卫师团长森赳中将,并假借近卫师团长的名义发布军事动员令,一度控制了皇室宫殿。由于内大臣木户幸一得到了陆军部有人策划叛乱的消息,提前下令将录制好的唱片藏匿起来。叛乱军官还没有找到唱片,东部军(负责日本关东地区国防事务的日本陆军)田中静一大将就已平息了叛乱(有说法是裕仁天皇出面解决了叛乱),叛乱事件以叛乱的多数首谋的自杀告终。12时,广播员和田信贤向听众放出整点报时后,《终战诏书》录音在日本广播协会的放送室播放。
终战诏书的宣读是日本绝大部分民众第一次听到被神化为天皇的国家最高元首的声音,在播放后包括陆军相阿南惟几、航空技术部总长偎部正美等34名将官切腹自杀。几乎是在播放后同一时间,太平洋战场的战争就结束了。而在亚洲陆上战场,日本军队与各地武装力量的冲突并没有完全停止。在中国,部分侵华日军拒绝向中国国民党、中国共产党以及在东北的苏联红军投降,继续进行着各种军事行动。直到1945年9月2日日本代表在美国战列舰密苏里号上签字才在名义上结束了日本侵略战争。
关于在第二次世界大战中,日本究竟是投降还是自我终止战争,在日本是一个受争议的话题。此外由于各种原因,反法西斯同盟国4大国家均接受了终战诏书,并保留了天皇制

诏书原文

播报
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中文版本

中文版本由铃木贯太郎内阁委托汉学家川田瑞穗起草如下:[5]
朕深鉴于世界大势及帝国之现状,欲采取非常之措施,收拾时局,兹告尔等臣民,朕已饬令帝国政府通告美、英、中、苏四国,愿接受其联合公告。
盖谋求帝国臣民之康宁,同享万邦共荣之乐,斯乃皇祖皇宗之遗范,亦为朕所眷眷不忘者;前者,帝国之所以向美英两国宣战,实亦为希求帝国之自存于东亚之安定而出此,至如排斥他国之主权,侵犯他国之领土,固非朕之本志;然交战已阅四载,虽陆海将兵勇敢善战,百官有司励精图治,一亿众庶克己奉公,各尽所能,而战局并未好转,世界大势亦不利于我。加之,敌方最近使用残酷之炸弹,频杀无辜,惨害所及,实难逆料;如仍继续作战,则不仅导致我民族之灭亡;并将破坏人类之文明。如此,则朕将何以保全亿兆赤子,陈谢于皇祖皇宗之神灵乎!此朕所以饬帝国政府接受联合公告者也。
朕对于始终与帝国同为东亚解放而努力之诸盟邦,不得不深表遗憾;念及帝国臣民之死于战阵,殉于职守,毙于非命者及其遗属,则五脏为之俱裂;至于负战伤,蒙战祸,失家业者之生计,亦朕所深为轸念者也;今后帝国所受之苦固非寻常,朕亦深知尔等臣民之衷情,然时运之所趋,朕欲忍所难忍,耐所难耐,以为万世之太平。
朕于兹得以维护国体,信倚尔等忠良臣民之赤诚,并常与尔等臣民同在。若夫为情所激,妄滋事端,或者同胞互相排挤,扰乱时局;因而迷误大道,失信义于世界,此朕所深戒。宜举国一致,子孙相传,确信神州之不灭。念任重而道远,倾全力于将来之建设,笃守道义,坚定志操,誓必发扬国体之精华,不致落后于世界之进化,望尔等臣民善体朕意。[3]

复文版本

朕深鉴世界大势与帝国现状、欲以非常措置收拾时局、兹告忠良尔臣民:
朕使帝国政府、对米、英、支、苏四国、旨通告其受诺共同宣言。
抑图帝国臣民康宁、偕万邦共荣之乐者、皇祖皇宗之遗范、而朕之所拳拳不措也。曩所以宣战米英二国,亦实出庶几乎帝国自存与东亚之安定。如排他国主权、侵领土者,固非朕志。然交战已阅四岁、朕陆海将兵之勇战、朕百僚有司之励精、朕一亿众庶之奉公、各不拘于尽最善、而战局必不好转、世界大势亦非利我。加之敌新使用残虐爆弹、频杀伤无辜、惨害所及、真至不可测。而尚继续交战、终非但招来我民族之灭亡、延可破却人类文明。如斯、朕何以保亿兆赤子、谢于皇祖皇宗之神灵哉。是至朕所以使帝国政府应共同宣言也。
朕对帝国与共终始协力于东亚解放诸盟邦、不得不表遗憾之意。致想帝国臣民、死于战阵、殉于职域、毙于非命者、及其遗族、五内为裂。且至负战伤、蒙灾祸、失家业者之厚生、朕之所深轸念也。惟今后帝国之受苦难、固非寻常、尔臣民之衷情、朕善知之。然朕时运所趋、堪难堪、忍难忍、欲以为万世开太平。
朕兹得护持国体、信倚忠良尔臣民之赤诚、常与尔臣民共在。若夫情之所激、滥滋事端、或如同胞排挤、互乱时局、为误大道、失信义于世界者、朕最戒之。宜举国一家、子孙相传、确信神州之不灭、念任重而道远、倾总力于将来之建设、笃道义、巩志操、誓发扬国体之精华、可期不后于世界之进运矣。尔臣民、其克体朕意!
汉文复文
注:“复文”是日语中的一种术语,指将日文的“汉文训读体”(文言文)书写的文本还原成汉文。《终战诏书》原文就是用的这种文绉绉的“汉文训读体”,所以复文文本最能体现日文原文的文义。[6]

日文原版

《终战诏书》全文是以日文的汉文训读体写成。当时天皇朗读《终战诏书》时,庶民难以理解其内容。原文如下:
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ、非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ、茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク。
朕ハ帝國政府ヲシテ、米・英・支・蘇四國ニ對シ、其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ。
抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ、萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ、皇祖皇宗ノ遺範ニシテ、朕ノ拳々措カサル所。曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ、亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ、他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ、固ヨリ朕カ志ニアラス。然ルニ、交戰已ニ四歳ヲ閲シ、朕カ陸海將兵ノ勇戰、朕カ百僚有司ノ勵精、朕カ一億衆庶ノ奉公、各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス、戰局必スシモ好轉セス、世界ノ大勢亦我ニ利アラス。加之、敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ、頻ニ無辜ヲ殺傷シ、慘害ノ及フ所、眞ニ測ルヘカラサルニ至ル。而モ尚交戰ヲ繼續セムカ、終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス、延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ。斯ノ如クムハ、朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ、皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ。是レ朕カ帝國政府ヲシテ、共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ。
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ、遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス。帝國臣民ニシテ、戰陣ニ死シ、職域ニ殉シ、非命ニ斃レタル者、及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ、五内爲ニ裂ク。且戰傷ヲ負イ、災禍ヲ蒙リ、家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ、朕ノ深ク軫念スル所ナリ。惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ、固ヨリ尋常ニアラス。爾臣民ノ衷情モ、朕善ク之ヲ知ル。然レトモ朕ハ時運ノ趋ク所、堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ、以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス。
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ、忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ、常ニ爾臣民ト共ニ在リ。若シ夫レ情ノ激スル所、濫ニ事端ヲ滋クシ、或ハ同胞排儕、互ニ時局ヲ亂リ、爲ニ大道ヲ誤リ、信義ヲ世界ニ失フカ如キハ、朕最モ之ヲ戒ム。宜シク舉国一家、子孫相傳ヘ、確ク神州ノ不滅ヲ信シ、任重クシテ道遠キヲ念ヒ、總力ヲ將来ノ建設ニ傾ケ、道義ヲ篤クシ、志操ヲ鞏クシ、誓テ国體ノ精華ヲ發揚シ、世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ。爾臣民、其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ。
御名御玺
昭和二十年八月十四日[4]
终战诏书原文

现代日语译文

私は深く世界の大势と日本の现状について考え、非常の手段によってこの事态を収拾しようと思い、忠义で善良な国民に通告する。
私は日本政府に米国、英国、中国、ソ连に対してポツダム宣言を受け入れることを通告させた。
そもそも日本国民の安全を确保し世界の国々とともに栄えることを喜びとすることは、先祖から行ってきたことであって、私もそのように努力してきた。先に、米国英国に宣戦布告した理由も、日本の政治的経済的自立と东亜の安定を愿ってのものであって、他国の主権を侵害したり、领土を侵犯したりするようなことは、もちろん私の意志ではない。しかしながら、四年间の戦争で、われわれ陆海军将兵の勇敢な戦闘や、官僚氰务员の勤勉、一億国民の努力、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦争における状况は芳しくなく、世界の情势も我々には不利に働いている。それだけではない。敌は、新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使用して、何の罪もない非戦闘员を多く杀伤し、その被害はまったく図り知れない。それでもなお戦争を継続すれば、最终的には日本民族の灭亡を招き、そうして人类文明も破壊されることになってしまうだろう。このような事态になったとしたら、私はどうしてわが子とも言える多くの国民を保ち、先祖の霊に谢罪することができるだろうか。これこそが政府にポツダム宣言に応じるよう命令した理由である。
私は日本とともに终始、东亜の植民地解放に协力した友好国に対して、遗憾の意を表せざるを得ない。日本国民で戦场で没し、职场で殉职し、悲惨な最期を遂げた者、またその遗族のことを考えると体中が引き裂かれる思いがする。さらに戦场で负伤し、戦祸にあい、家や职场を失った者の厚生については、私が深く心配するところである。思うに、これから日本の受けるであろう苦难は、いうまでもなく大変なものになる。国民の负けたくないという気持ちも私はよく知っている。しかし、私はこれから耐え难いことを耐え、忍び难いことを忍んで将来のために平和を実现しようと思う。
私は、ここに国体(天皇制)を守り通して、忠义で善良な国民の真心を信頼し、いつも国民とともにある。もし、感情的になって争い事をしたり、国民同士がいがみあって、国家を混乱に陥らせて世界から信用を失うようになることを私は犟く悬念している。国民よ、どうか団结して子孙ともども固く、神国日本の不灭を信じ、道は远いが责任の重大さを自覚し、総力を将来の建设のために倾け、道义心や志操を固くして、日本の栄光を再び辉かせるよう、世界の动きに遅れないように努力しなければならない。あなた方国民はどうか私の気持ちを酌んで理解してほししい。
天皇の署名と印玺(御名御玺)
昭和二十年八月十四日